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精神哲学に貫かれた「悠久」の経営 




カルマ(業=Karman)とは、
人間の死後の運命を
決めるものは

生前の行為いかんによるという
因果律の思想である。

カルマのくわしい概念は、
ウパニシャッドの時代には
まだ完全には確立されて
いなかったが、

その定義はすでに
明示されている。

 『人は〔この世において〕
なしたとおりに、
その行なったとおりになる。

善をなす人は善となり、
悪をなす人は悪となる。

善業によって善い者となり、
悪業によって悪い者となる』

(『ブリハッドアーラニヤカ・
ウパニシャッド』Brhad. Up. IV,4,5)

その人の行なった行為は、
現世のみならず来世の
自分にも影響を与えていく。

そのカルマを運んでいくのは
魂=アートマンである。

私たちの魂は世代、
時代を越えて次々に
生まれ変わっていく。

死ねばすべて終りではなく、
魂の再生によって、
カルマも次世代へと
引き継がれていくのだ。


 「経営の魂」「経営哲学」も
この例外ではない。

れらは次世代へと引き継がれる。

よい経営をした経営者の会社は
次世代にも栄えようし、

自分と自分の会社さえ
儲ければそれでいいと
エゴむき出しの経営者と
その会社は、

必ずそれ相応の報いを
受けるのである。

経営は一代限りの
ものでないことを、
経営者は己の心に
銘記されたい。

儲け第一主義から脱し、
人間尊重と社会貢献を
視野に入れた経営を
成すものは、

次世代の経営も善業となり、
己と子孫の魂も向上
するのである。

松下幸之助氏や
本田宗一郎氏などと
同時代に生き、

ヤング・ライオンズと称された
企業家の一人に出光興産の
故出光佐三氏がいる。

出光氏は家業の没落から、
名門校を出ても丁稚奉公に
等しい商売に就かねばならない
苦労をなめた。

その間、人から軽んじられ、
裏切られる経験も何度かした。

だが彼は、
意地と信念を持って
出光興産を興し、

その経営哲学の
根本にすえたものは
「人間尊重」の理念であった。

具体的には、
首切りや定年制を行わない
とする経営方針である。

出光氏が
人間に裏切られながら、
人間尊重の経営を
とりえたのには、

彼を育てた母親の強い愛情、
卒業校の校長をしていた
恩師から「無私の愛」と
もいうべき教育を
受けたことなどが背景としてある。

これらの「愛」が
出光氏の潜在意識下に
「善意のカルマ」となって積まれ、

魂の陶冶と人格の向上を
促したわけである。

それが人間尊重という
「愛」の経営を可能にした
主要因なのである。
(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

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明るく磨かれた本田宗一郎氏の魂2 




(前回のつづき)
ただし、これだけなら本田氏は
明るくて楽天的な経営者で
終ってしまい、

そのカルマも明質な
ものではあるが、

「善」というところまでは
レベルアップされない
はずである。

氏が非凡であり、その魂が
たいへん高次であるのは、
次のような点に理由があるのだ。

「金利のサヤ
(車のローン金利)が
儲けの主要な部分になるような

企業のあり方そのものが、
僕のような神経には耐えられない。

自動車工場を経営していても、
技術とアイデアで儲けないで、
金融操作で儲けているのでは、

どうみても自動車会社とは
いえない。

・・・土地を売って儲けても
同じ儲けには違いないが、
何でもいいから儲けさえ
すればいいというのでは、

せっかくの看板が
泣こうというもの」と、
本田氏は言っていた。

モノをつくる労苦を惜しみ、
土地や株だけで安易に
儲けようとする風潮への
嫌悪、批判が語られている。

利潤第一主義を排し、
モノをつくり、
労働することの喜びを、
企業と人の根本理念に
すえようとする本田氏の哲学が

よく表されている言葉だ。

氏のカルマ、魂を
善ならしめていることは、

権力に淡白であったことと
財を世襲させなかったこと
(息子や一族を後継者にしないし
会社にも入れなかった)である。

本田氏は「トップは役員会に
出席するべからず」と言って、

絶対的な権力を持っている
自分たちが役員会へ出ることの
弊害を知悉していた。

自分の権力に遠慮して、
幹部たちのアイデアや思考を
封じてしまうからである。

言い替えると、
彼は自分の有していた
大きな権力を行使しようとは
しなかった。

それだけ欲や権力に淡白で、
固執する心がなかったからである。

権力を志向せず、
同族経営を否定するのは
凡百の経営者にできることではない。

それだけ、氏は
私利私欲から離れ
自由であったということだ。

カルマを善積し、魂を磨くのに、
まず己の欲から離れることが
第一条件である点は再三述べてきた。

世界のホンダの創始者は
この条件を十二分に満たして
いたのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

徳と富を兼備した松下幸之助氏のカルマ 





 今、「故松下氏の経営哲学が
二十一世紀の経営者にとって
確かな教訓になる」と、

ハーバード大学、ビジネススクールの
教授であるジョン・P・コッター氏も
注目している。

それは「松下幸之助の生き方」
にあると、コッター氏の論文で
述べられている。

 経営の神様とも言われ、
高い評価を受けていた松下幸之助氏が
亡くなったのは平成元年。
九十四才という長命であった。

 その途端というわけでもないが、
この創業者の死後、松下電器の
製品に事故や不良品が出たことがある。

 松下氏の徳、氏の超潜在意識に
積まれていた「良質」のカルマ
(業=Karman)

それらが松下電器に与えていた
影響力が一時的にせよ薄れた結果、
と言えなくもない。

 経営者の過去や前世の行いが、
企業活動に少なからぬ影響を与える

――それがよいものにせよ
悪いものにせよ、
起こり得ることである。

松下氏の場合、私の知りうる限りで、
氏の生育史や事業史に見られる
カルマは非常に良質なものであり、

それを一言で表わすなら
「利他の心」
とでもいうべきものである。

 利他、他者を利する経営。
むろん、事業家である限り、
「自分と自分の会社も儲ける」が、

それ以上に客や第三者も富ませ、
豊かにしよう。

そういう「魂」の思いが、
氏にあったと言える。

たとえば、氏は明治二十七年
十一月の生まれ。

近代産業文明の黎明期に幼年、
青年時代を過ごしている。

彼が充分な教育を受けないままで
丁稚奉公に出されたことは有名だが、

自転車屋に奉公中、
市街電車の走っているのを見て、
ひらめき、電気の仕事をしたいと
決意している。

 「(電車が)大勢の客を乗せて、
生き物のように走っている。
これからは電気の時代だ」

すぐれた事業家の先見力という以上に、
青年の彼が、大勢の人が喜び、
たくさんの人の便宜に供したい、

つまり、他者を利したいと直観している
ことが重要である。

このとき氏は、
「事業の繁栄とは、他を利する
ことによって自分も栄えること」

という要諦をほとんどじかに
つかんでしまったと思える。
(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)


直言、諌言はこれを重用する 2 

20170315川上光正ブログ


 リーダーたる者、部下の意見はこれをいたずらに遠ざけず、
むしろ進んでこれを聞き、吸い上げるべき点は吸い上げ
軌道修正する寛容さ、度量が必要となってくる。


 だが、リーダーとして狭量な人はこれと逆をやる。
直言を辞さない硬骨漢を「けむたい」と遠ざけ、
自分にとっていいことや耳ざわりのよいことばかり言う側近、
自分の言うことを無批判に受け入れるイエスマンだけを
周囲に置くようになるのである。


その結果、どうなるか。


 勝海舟の次のエピソードがそれを教えてくれる。


 明治期、当時の政界の首領・伊藤博文の
取り巻き達が、赤坂・氷川に隠遁している
勝海舟を訪ねて、しきりに伊藤の悪口をいう。

勝は頃合いを見てこう問うた。


 「もっともだが、その批判を伊藤の前で直接いえるかい」


とり巻き達は黙ってしまった。


 「そうだろうな。伊藤は実に頭のいい、物の見える男だよ。
しかし、君たちがひとことも批判をせず、いいことばかり耳に
入れていれば、伊藤といえども目は曇っちまうよ」


 いかにすぐれた資質を持つリーダーといえども、周囲に直言、
苦言を言わぬイエスマンだけを置いていたら、視野は狭くなり、
増長して道を誤るのだ。


 だからこそリーダーは、耳の痛い話、直言をしてくれる
「けむたい」部下の言葉にこそ、素直に耳を傾けなくてはならない。


「へつらい者を避けるには賢い側近を選び、その者だけに直言させよ」


『君主論』を書いたマキャベリの言葉である。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

確固とした信念を持つ(2) 

川上光正ブログ2

(前回のつづき)こうあるべきだ、こうすべきではないという原理、信念は人間の背骨のようなもので、一つの確固とした信念を持っている人の生活や生き方は、その背骨を支柱としてまっすぐに立ち、揺るがない。風雨にさらされようと不動である。


 一方、信念を持たない人のそれは、風向きによって左を向いたり右を向いたり、定型のない風見鶏的なものになってしまう。戦中は戦争を賛美しておきながら、平和が訪れるや昔のことを忘れてしまう、そんなふうな無定見なものになってしまう。


 どちらが、リーダーとして適性か。どちらが部下の信頼と尊敬を集めるか。いうまでもないだろう。


 信念とは、「~すべきだ」という良心の命令に基づいた義務といえる。そこが、「~したい」という欲望と異なるところである。また、「~でありたい」とする希望とも違っている


。義務とは、やってもやらなくてもいいというあいまいな理想や目的ではなく、しなくてはならないという自主的な命令であり、実践である。そこから信念と責任が生まれてくるのである。


 価値観が多様化し、相対化していく時代だからこそ、私はこうするのだ、これだけはしないのだという「不動の信念」「不動の精神力」が必要になってくる。とくに、リーダーは組織を正しい方向へ導き、人心を一つにまとめる義務と責任を負っている。


「匹夫の志も奪うべからず」
 と孔子もいっている。どんなに低い身分の者でも、その人が確固とした信念を持っていれば、いかなる財力、いかなる権威もこれを曲げることはできないのである。


 まして、人の上に立つリーダーは不動の信念、見識、原理原則、哲学、スタイルをもって事に当たり、人を動かさなくてはならない。それがリーダーの責務である。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

奥義書『ウパニシャッド』が説く経営哲学 

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 金を残すのは下の下、名を残すのは中の中、人を残すのは上の上――組織を率いる人間の心得として肝に銘ずべき言葉であろう。
 私はこれをさらにランクアップして、
  財を成し財を輝かすは二流
  人を成し人を輝かすは一流
  愛を成し魂を輝かすは超一流
と考えている。
  企業活動が経済行為の一環である以上、利潤追求の側面を有することはある程度いたしかたない。「より儲けよう」という姿勢がそこに働くことは否定できない。
だが、それだけでは「商」のみあって「哲学」なしということになってしまう。
 企業経営の目的は、利のみを図るだけではない。それと同等に、いや、それ以上に「人を育てる」「信(社会的信用)をつちかう」「愛(人間的つながり)を育む」「人格を磨く」といった哲学的な目的もある。そうした多様で総合的な行為がすなわち真の企業活動なのである。
 利を追求して財を成す。そういう時期があってもよいが、いつまでも利潤追求だけではいけない。次の段階では、成した財の社会への還元を考え、それを実行する。その理念の実践がひるがえって、己の人格をも研磨してくれるというのである。
 京セラや第二電電を創立し電気通信事業も手がけてきた稲盛和夫氏は「企業活動を通じて社会に貢献する」ことをみずからの理念とされ、科学や文化の振興のために公益法人の財団を設立するなどして、いわば企業利益の社会還元を実践されている。
 さらに稲盛氏は「欲望には際限がない。足りないと感じるのは心が貧相だから」と悟り「財産は世の中から預かっているものだから、ごく一部は子孫に残すが、大半は財団に寄付する」と。
 一九九七年三月、稲盛氏が所有する京セラの株式三百万株(二百十億円相当)を氏が理事長を務めている稲盛財団の基本財産として寄付している。
 己の利のみを図るのではない、みごとな経営哲学の実践と敬服するが、肝心なのは、氏が、経営を伸ばし、社会に貢献することは単に名誉の問題でなく、そうすることで自分の「心を高める」ことが可能になるとされている点だ。
 氏の言う「心を高める経営」は、私の言葉でいうと「魂の喜ぶ経営」となるだろう。
 稲盛氏は著書『敬天愛人』(PHP研究所刊)の中で「現世とは、心や魂を純化させるための修行の場である。人間は、少しでも自分の心を高めるため、この現世に生を受けている。少しでも高いレベルに自分の心を置くことができれば、より素晴らしい人生が送れるからである。本来、愛と調和と誠に満ちている真の魂に、一歩でも近づく努力を大切にしなければならない。(傍点は筆者)と考え、経営の第一線から退く決意をした」と述べている。
少し気になるのは、氏が六十五歳を迎えたのを機会に、仏門に入ると公言し平成九年九月七日に〝得度〟を受けたことと、平成九年六月、胃ガンの手術をしたことである。胃ガンの手術は一応成功したようだが、再発しないことを祈っている。仏門に入る理由は、「自分とは何者なのかという思索を巡らすことなく人生を終わらせたくない」と言っているが、その理由は理解出来る。しかし、果たして仏教だけで自己探求が可能だろうか。
 仏陀は、仏教で悟りに達したのではない。ムニやリシなどヨガ聖者の指導によってヨガと瞑想を実践した結果にほかならない。悟りに達したあと、仏陀は自己の教義・仏教の原典を開発したのである。私は、稲盛氏が求めている「自分とは何か」を探すのには、やはり仏教とは異なった『ウパニシャッド』の精神哲学にその答があるのではないかと考えている。
 奥義書『ウパニシャッド』は、古代インド最古の聖典であり、その一行一行が叡智に富んだ、近代の西洋哲学者にも多くの感動と示唆を与えた珠玉の哲学思想書である。それは不肖、私の発想や思考の源であり、哲学原理を形づくった根本でもある。私自身の存在は『ウパニシャッド』より出で、『ウパニシャッド』に還っていくと言っても過言ではない。その『ウパニシャッド』の一節に次のような件がある。
 『人はじつに財産によっても満足することができない。もしもわれらが汝(死神)を見たとき、われらは財産を保持し得るであろうか?〔生死をつかさどる〕汝の支配するかぎり、われわれは生存し得るのであろうか?』
                       (ibid. I,26-27)
 『かれの心臓に宿った一切の欲望が解き放されるとき、そのとき可死なる[人]は不死となり、ここにおいて絶対者(ブラフマン)に達する』
                         (ibid.VI,14)
 死の前には財は無力である。現世の利益は〝あの世〟へは持っていけない。また、己を利する心、利潤追求の心を離れた時にこそ永遠の生命が手に入り、己の魂=純粋精神(アートマン)が梵=宇宙真理(ブラフマン)へと止揚されるという教えである。
 欲を満たし、財を成すだけでは人はついに満たされることはない。心の平安・平和も得ることはない。
欲を離れ、財に淡であることが心を清め、魂を高めることに通じていく。そのとき、経営活動が理念化し、その経営理念が経営哲学、精神哲学へと昇華されていくのである。
 きれいごとだと言う人もあろう。だが、稲盛氏をはじめ、故人の松下幸之助氏、本田宗一郎氏といった一流の経営者には、己の欲を離れることの大切さがわかっていた。そうした『ウパニシャッド』の思想に近い精神哲学を理解し、有していたがゆえに、彼らは一流の経営者となったのである。
 どんなリーダーや経営者、組織の長にも、欲を離れ、魂を高めることの必要性、言い替えると『ウパニシャッド』の精神哲学に目を向けることの意義は理解いただけると思う。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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才なくて徳あることを喜ぶ 

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 かつて、小説家の太宰治が芥川賞候補にあがったとき、選考委員の川端康成は太宰の文才を大いに認めながらも、その私生活の乱れを懸念して、「才あって徳なし」と評した。
 太宰はそれを聞いて、「いや、私は徳あって才なし」だと抵抗するようにつぶやいたという。才と徳、つまり、才智と徳望。この二つの人間の属性はときとして矛盾、対立して相入れないものとなるようだ。
 頭が切れ、力量・手腕も人並みすぐれている。知識も豊富で、弁舌もたくみである。それなのに、仕事の成果はいまひとつ上がらず、人間関係もうまくいっていない人がいる。
 一方、学識や才能はさほどのものではなく、どちらかといえば口下手で、仕事のスピードも速いものではない。にもかかわらず、人から好かれ、信用を得、その結果、仕事も順調にこなしていく人がいる。
 ややステレオタイプな分類だが、前者は才あって徳なし、後者が徳あって才なしの場合が多い。
 よく、手腕があり、才智に長けていれば、どんな物事をも成しとげ、願望を実現できると錯覚している人がいるが、それは才あるがゆえのおごりと言わねばならない。どんなに才智あふれる人でも、自分一人でできることはそんなに多くない。
 社会とは人の集合体である。その社会の中で物事を成就していくには、人々の信用と協力を得る必要がある。どんな崇高な政策をもっていても、票を集めて政治家にならなくては、それを行政に反映できないのと同じである。
 では、有権者の信用と協力はどうしたら得られるか。票は金で得られるかもしれない。しかし、信用を得るのは、その人の「徳」である。徳望なしでは才智はあっても、人の信頼は得られず、物事も成就、達成できないのだ。
 人々が、ある人に信を寄せ、徳をあおぐのは、その人の才や識に対してではない。人格の力である。
 企業のセールスマンでトップの成績を上げるのは、どんなタイプかご存じだろうか。頭の回転が速く、立て板に水式の流暢なセールストーク術をもつ才気走った営業マンかと思うと、さにあらず、朴訥で不器用な話し方しかできないが、それゆえに人柄から誠実さがにじみ出ているタイプの営業マンなのである。
 要は、その人格から「信」が感じられるかどうか、「徳」が感じられるかどうかの差なのだ。
 学識や才能にはとくに恵まれていなくても、陰日向のない正直さ、嘘をつかない誠実さ、はったりを口にしない着実さ、人と和をかかさない円満さ、たゆまぬ努力、決してあきらめない粘り・・・そのような特質を目立たず確実に発揮して、人びとの信頼を集め、世の中を順調に渡っていく人。周囲を見渡すと、必ずそういう人がおり、人の上に立つリーダーとなっているはずだ。
 才というのは利を生むかもしれないが、その利は長続きしない。才だけでは徳を生まないからである。悪徳商法で一時的に儲けても、結局、その正体を暴かれ、社会的に糾弾され、わが身の破滅を招いてしまうのがよい例だ。才は一億の利を生むかもしれないが、人の信を得られない。徳は人の信を呼んで、人の利を得るのである。
 才智と徳望はウサギとカメともいえる。ゆっくり一歩一歩行くカメが、結局は才にまかせて走り、おごるウサギに勝つように、徳は才を上回るのだ。
 また、才は新しい才によって乗り越えられるが、徳は次の徳と共存できる。だから、人の上に立つリーダーはもちろん、すべての人に私は言いたい。才なきことを嘆くな、徳うすいことを戒めよ。才なくして徳あることを喜べ、と。
 徳は、人格の力を磨き、人を集め、吸引する。人間の第一歩の属性である。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記

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リーダーは出処進退をきれいにする 

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 リーダーの引き際ほど難しいものはない。
 引き際を誤って晩節を汚してしまったというケースは珍しくない。惜しまれて辞めるのがいちばんだが、それがなかなかできないのが権力者の性というものである。
 談合、贈賄で揺れる大手建設会社のトップが、兼任する経済団体の長を辞任するしないでもめたことがある。経済団体と会社は別だという理屈で、この人は辞任を拒んだが、李下に冠を正さず、疑われたらそれだけでも責任を問われるのがリーダーというものだ。そのことが、この人にはわからなかったらしい。
 人間の引き際、出処進退の難しさについては『宋名臣言行録』にこんな件がある。北宋の官僚・王安石は新法を施行するときに、才気あふれる能吏ばかりを要職につけた。
 それを懸念した司馬光が理由を問うと、
「当初は才人を使って新法を定着させ、その後、老成した人物にポストを替えて、これを守らせるつもりだ」と、答えた。知恵者に行わせ、仁者に守らせようというわけである。
 これを聞いた司馬光は嘆息して言った。
 「優れた人物というのは、要職を与えるときには遠慮して、これをなかなか受けないものだ。しかし、そのポストを辞めろといわれた場合には、さっさと身を引く。その出処進退は実にあざやかなものだ。これに比して、才智あれども小者は、要職をすすめられれば喜んで受け、一度得た地位は執着して手放さないものだ」
 王安石の狙いはわかるが、才人というのはポストにこだわるから、その人事は果たてうまくいくかどうか、とあやぶんだのである。結局、その忠告どおり、王安石はクビにされ恨みを含んだ小者官僚に告げ口され、それがもとで失脚してしまった。
 それほど出処進退はむずかしく、その決断をスパッとできるかどうかがリーダーの試金石となるということである。
 一般に、進むのはやさしいが引くのはむずかしい。引くときには責任がともなっているし、それまで築き上げたものを手放すことになるのだから、しがみつきたくなるのが人情かもしれない。
 だが、進むべきときに進み、引くべきときに引くことがリーダーの身の処し方として大切だし、指導者の重要な心がまえである。
 リーダーたる者、いつでも身を引ける覚悟を持っていてほしい。というより、そうした覚悟を有している者にしかリーダーの資格はない。辞意をもらして、引き止められるようでありたい。
 地位や名誉にこだわらない心と、辞める時期を過たない判断力。そして、辞めようと決める決断力、それがリーダーには必要である。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


リーダーが持つべき「宗教心」とは何か 

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 戦後何度目かの宗教ブームもここに来て、色あせてきた感じがする。しかし、時あたかも世紀末、これまでの物質中心主義の世界観が行きづまりを見せる一方で、管理社会の息苦しさから脱出したいとする願望も、人々の間に高まっている。そうした時代的、心理的背景が人びと――とくに若者を宗教の〝神秘性〟へと駆り立てるのだろう。いわば、合理性に疲れて非合理性を求める人がふえているのである。
 それ自体は間違っていないが、問題は彼らの〝受け皿〟である宗教団体に宗教の本質から逸脱した組織が多いことである。現在、問題がある宗教団体の大半は、安易であるか、攻撃的であるか、排他的であるか、さもなくば金目当てか、だいたいこれらに分類されてしまう。
 安易というのは、教祖を神格化、絶対化して個人崇拝を強いたりする(それでは旧ソビエトのスターリン崇拝やナチスのヒトラー崇拝と変わらない)点や、メシアがやがて現われこの世の難問題を一挙に解決してくれるといった黙示録的な「幻想」を振りまく点である。
 攻撃的というのは、世界各地で絶えない宗教戦争や日本でも見られる宗派同士の内部抗争。今も続いているイギリス・北アイルランドのカトリック系住民とプロテスタント系住民の衝突も同じキリスト教の流れを持つ宗教的な争いのようだ。それに、外部の一般の人たちと無用な軋轢を起こす団体、調和と平穏を目指すはずの宗教がなぜ争いをくり返し、殺人をやめないのか。「目には目を」といった報復主義のにおいの強い教えを説いて平然としている。
 排他的でもある。典型例が旧約聖書の「ノアの箱舟」のエピソードである。「主はノアに言われた。さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけは私に従う人だと私は認める。・・・」と、主は、主に従う人を箱舟に乗せ助け、他の人や動物は助けないという、一種の選民思想のような考え方に貫かれている。
 旧約聖書(日本聖書協会刊)、民数記・二十八章には、献げ物の規定がある。日ごとの献げ物「無傷の一歳の羊二匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、毎日、朝夕に一匹ずつ、ささげなさい」・・・三十一章には「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々が、ミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい。その後、あなたは先祖の列に加えられるであろう』・・・ (中略)彼らは主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにし
た」と。象徴的な意味合いは別にしても、一部の人しか救わない、そして生贄、報復、戦いの思想や教えはとても主、神の言とは思えないのだが。
 新興宗教の拝金的体質については言うまでもなかろう。人の弱みや不安につけこんで法外な料金で物品を買わせたり、先祖供養と称して財産をまきあげたり、これらはもう言語道断である。
 いずれにしても、宗教の本質からは大きくずれている。このような団体に救いを求める人があわれである。精神の暗いトンネルから抜け出たくて光を求めたのに、別のトンネルヘ引きずり込まれたようなものだから。
 宗教について語ることが本書の目的ではないし、私は宗教(救いを求める行為)そのものをあえて否定もしない。その教義や本質を理解しようとはするが、それを必要以上に持ち上げたりおとしめたりもしないつもりだ。
 ただ、宗教(団体)や単純な信仰心を突き抜けた向こう側にある「精神哲学」の光を感じてほしいと願う。神が自分の「外」にあるとする宗教より、それは自分の「内」にあるとする哲学を学んでほしいと思う。いってみれば、宗
教よりは精神哲学、「救い」よりは「悟り」、聖書よりはさらに古い、古代インド哲学の奥義書『ウパニシャッド』、現世の利益よりは魂の平安――そして、全人類の愛と平和と平等を願う博愛の精神を持つよう努力してほしいと思うのである。
 私は問題を起こしている宗教団体には疑問を持っているが、宗教心や信仰心は人間にとって不可欠なものだと思っている。大自然や大いなるものに感謝する気持ち、人の死や不幸をいたむ気持ち、人を許したり受容する気持ち――そうした倫理的宗教心は人間にとって第一級の資質である。ただ、そうした宗教心と、宗教組織とはおのずと別であるということを、よく自覚してほしいと思う。
 教祖が民主的な選挙で選ばれて運営されている教団があるとすれば、宗教改革への道が開かれるかもしれない。
 宗教心は人を謙虚にし感謝の心をうえつける。人は謙虚になったとき、自分は生きているのではなく、「生かされている」のだと知り感謝の念がわく。そして、はじめて心の平安を手に入れることができるリーダーが持つべき〝宗教心〟とはそうした感謝の念なのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


川上光正オフィシャルサイト
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困難なことほど実行する価値がある 

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歴史小説というジャンルの中で〝日本人のかたち〟を問い続けていた作家・故司馬遼太郎氏は以前、新聞紙上で次のようなエピソードを語っていた。
 司馬氏が日本文学研究者のドナルド・キーン氏と京都の銀閣寺で対談したときのこと。庭園の砂があまりにも美しかったので、司馬氏が、「これを建てた足利義政はえらいものですな」とつい感慨をもらした。するとキーン氏はすかさず、
 「応仁の乱をよそに見て、こういう建物をつくる為政者を尊敬できますか」
 さしもの司馬氏も一本とられた形だったという。
 民の苦しみをよそに栄華を誇るリーダーを、人々は恐れることはあっても、また軽蔑はしても、敬い慕うことは決してあるまい。
 みずからの地位と権力を利用して私腹を肥やす政界のリーダー、利権に群がり既得権にしがみつく財界のりーダー――その姿は怒りを通り越して、むしろ物悲しい。地位や権力には、水が低きへ流れるように利権が集まってくる。その地位、権力が強大になればなるほど利権は莫大になっていく。だからこそ、人は地位を欲しがるし、一度手にした権力を手放そうとはしなくなる。そうした〝うまみの構造〟が厳然として存在する限り、汚職はあとを絶たないだろう。
 だから、必要なことは、「奴らは汚い」という批判より、「仕方ないさ」という諦めより、その〝うまみの構造〟を改正する制度的な現実的な処理であろう。もう一つ必要なのは「偉いんだから、もらって当たり前だ」という精神構造を変えさせていくことだ。
 「李下に冠を正さず」という。人の上に立つ者は、その地位と権力ゆえに、つねに身辺をきれいにし、執着心をなくし、お金に淡泊であり、私利より公利、私益より公益を優先させなくてはならない。
 利己的な欲望を克服し、集団のためには自分の損失や自己犠牲もあえて辞さない姿勢、勇気。それがリーダー、経営者に要求される資質である。
 こういうと、再び「それは理想論だよ。青くさい書生論では現実は動かない」という声が聞えてきそうだ。
 だが、お金で人を動かしたり、地位を利用して甘い汁を吸うことなど、その気になれば誰にでもできるのである。誰にだってできることなどリーダーたるべき者はすべきではない、と私は思う。
 なるほど、人間は弱い動物で、地位や権力を持ったらそれを濫用してみたくなるのが人情というものだろう。みずからエリを正せ、というのも理想論かもしれない。理想論は実行することが困難である。
 だが、困難だからこそ、実行してみる価値があるのではないか。簡単なことなら他の誰かがするだろう。難しいことにチャレンジすることこそが、人の上に立つリーダーの責任であり、また「権利」なのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記

川上光正オフィシャルサイト
http://kawakami-yoga.com/

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