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徳と富を兼備した松下幸之助氏のカルマ2 



 一九二九年(昭和四年)世界的な
経済大恐慌のとき、
その影響は日本にも波及し、
松下電器の経営も悪化し
厳しい状況にあった。

経営幹部は、従業員の
レイオフしかないと考えていた。

だがその時、松下幸之助氏は

「今すぐ製造を半分に減産せよ。
ただし、一人も解雇してはならぬ。
生産の削減は解雇ではなく、
半日勤務で行なう。

給料は今と同じ額を支払う。
ただし、休日は返上して
全ての従業員が最善を尽くして
在庫の製品を売り切るように」

と、厳命している。

さらに戦後、GHQから
公職追放の憂き目にあい、
経営的にも個人的にも
行き詰まっていた。

そのどん底にあったときにも

「繁栄と健康を通じての平和」
をテーマにPHP運動を
スタートさせている。

順風の時ではない。
逆風の時期に本気で
社会に尽す道、

つまり利他の道を探っているのは、
やはり非凡と言わざるを得ない。

氏のカルマが良質であり、
また、よいカルマを積んだことの
何よりの証である。

 昭和四十年代半ば、公害、
インフレが台頭したときも、

 「警察や病院などの
公共サービスをのぞき、

日本の官庁、企業が一年間
〝休戦〟すれば海も大気も
きれいになる。

企業も国民も税金を
収めずにすむ」

 そう言い放って、
周囲の度胆を抜いている。

また、ある禅僧と対談した折、
 「もっとも理想的な会社とは
会社そのものがなくなることだ」

 という僧の言葉に、
 「そうだ。その通りです」
 と賛意を示している。

会社でない会社が理想とは、
企業というものは利潤追求を
目的としてスタートしながら、

最終目的は利潤から離れる
のが理想である、
という意味であろう。

ここにも「利他」の心が
濃厚である。

 また、よい製品を安く、
水道の水のように多くの人に
あまねく行き渡らせる、

という有名な〝水道哲学〟も
(今となっては物質万能主義の
においがするが)、

当時の、日本人がまだまだ
貧しかった時代にあっては、

どこか使命感に満ちて、
経営活動というよりは、

篤志家に近い博愛の精神の
ようなものを感じる。

 「何をつくっている会社ですか、
と聞かれたら、
人をつくっている会社です
と答えよ」

と言った松下氏は、

常に人に尽くし、
社会生活の改善に尽くし、
社会の発展に寄与しようと
考えていたに違いない。

それが企業の最終目的であり、
経営者の使命だ、とも。

 この、不変の「利他」の精神が
松下氏の経営に
「正義」を与えていた。

そのために、私の知る限りでも、
氏のカルマは非常に良質であり、
魂も研磨され、

超潜在意識にかげりがない。

松下氏は誰しも認める
徳と富を兼ね備えた
リーダーであり経営者であった。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

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己を捨て部下を活かす責任感2 

20170415川上光正先生ブログ


豊臣秀吉が毛利と戦ったとき、高松城を
水攻めにしたことはよく知られている。

秀吉の大軍と水に囲まれて、
食槐もっきはてた高松城兵は
死を座して待つという状況に追い込まれた。

このとき城の守将・清水宗治は己の命と引きかえに
城兵の命を助けるという、秀吉側の講話条件に応じ、
敵味方が見守る船上で割腹した。


 現代のリーダーが腹を切ってまで責任を負うことは
あり得ないが、自分の命を捨ててまで部下の身命を
救う責任感の重要さは本質的に変わらない。


「いつでも俺が責任を取る」という
リーダーの覚悟が部下を動かし、統率するからである。


 「一将功成りて万骨枯る」という言葉がある。
一人の大将が名声を得るそのかげには、
多くの兵卒の命が失われている。


たくさんの部下の労苦と犠牲の上に
リーダーの栄光は輝いているという意味だ。


日露戦争の旅順陥落のために何万という兵が
命を落としたが、そのおかげで乃木将軍の功名は
大いに上がった史実などはその典型であろう。


 しかし、将たる器なくて、万骨がその命を
捨てるわけもない。


「あの人のためなら・・・・」と部下に思わせる
資質をリーダーの方が備えていなくてはならない。


その大きな要因が、自分が責任を負って部下を
助けるという「一将死して万骨生きる」の精神である。


 人の上に立つリーダーや経営者は必ず、
その地位にふさわしい責任がともなう。


リーダーはいつでも責任を取ることを念頭に
置いて事に臨まなくてはならない立場にある。


 リーダーの責任感こそが人の心を動かし、
組織をまとめる最大の要因となるのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)


己を捨て部下を活かす責任感 

20170401川上光正先生ブログ


日本を、どこにも責任の所在がない、誰も責任を
取らなくていい「無責任体系」の国だといったのは
平成八年に逝去した政治哲学者の丸山真男氏である。


 たしかに、社会が複雑になり、高度に組織化されてくると、
幹部が取るべき責任が下へ押しつけられる、責任の横流し
やたらい回しが行われるなど、責任の所在は不明確になって
いく傾向が強い。


 動燃を引き合いに出すまでもないが、日本は
役人天国で、官僚の天下りがよく話題になる。


局長クラス以下の役人OBが特殊法人や民間企業に
天下っても、実際にはあまり役に立たないケースが多いという。


なぜなら、彼らは政策立案の能力には長けていても、
その政策の是非については責任を取らなくていい
システムの中で仕事をしてきた。

そのため、「責任を取る」能力、態度に欠けている。


しかし、実は民間企業の指揮官に最も要求される資質は、
その責任能力なのである。


 古くは、捕虜の刺殺を兵に命じておきながら、戦後、
その責を問われると、

 「いや、あれは部下が勝手にやったことだ」と
言い逃れする将校。

違法な株取引が発覚したとたん、
「あれは秘書がやったこと・・・」と、責任回避するリーダー。

いずれも人の上に立つ資格はない。


 一般の会社でも、何か問題が起きた場合、
「私はそんなこといった覚えはないぞ」
「どうするつもりだ。君が責任を取れよ」などと、
部下の失敗やミスを一方的に責めたり、
責任を押しつけたりする管理職がいるが、

これは言語道断。


責任転嫁された部下はまったく逃げ道がない。
部下をそういう立場に追い込んだというだけで

リーダー失格である。


 かりに、その問題が部下のミスや独断によるもので
あっても、管理職には少なくとも管理不十分、
監督不行き届きの責任は生じる。


人を束ね、組織の長たるリーダーは、他は無能であっても、
一点、「責任を取る」覚悟だけは常々しておかなくてはいけない。
(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

直言、諌言はこれを重用する 

20170302川上光正ブログ


 ある本を読んでいたら、故松下幸之助氏の
次のようなエピソードが紹介されていた。


 松下氏があるところで行った講演の内容が
好評だったので、それを書物にしようとして
重役会にかけた。


ところが一人の平取締役が立ち上がり、
これに真正面から異を唱えた。


 ――会長の説く内容はたしかにすぐれていて、
理想論としては非のうちどころがない。
しかし現実の処せん法としての有効度は果たしてどうか。

松下社内の実情と照らし合わせてみても、
かなりの隔たりを感じる。
それをそのまま本にするのはいかがなものか。
読者に対する「裏切り」にならないか――


 天下の松下の痛いところをズバリと直言したのである。
松下氏は一瞬、不快な表情をこしらえたが、結局、
彼の意見を入れて出版をとりやめた。

この平取締役がのちに、松下氏から異例ともいえる
抜擢を受けて社長になった山下俊彦氏だった。

「重役会でも臆せず自分の意見を述べる男だったから」
というのが、松下氏の抜擢理由である。


 言いも言ったり、聞くも聞いたりという感じだが、
良薬は囗に苦し。

経営者や幹部にとって耳の痛い発言をする部下、
上司であるにもかかわらず直言、
諫言を辞さない人間、そういうメンバーこ
そリーダーは重用しなくてはならない。


 現在、山下俊彦氏は松下電器の相談役に退いているが、
平成九年七月十五日、大阪で開催された関西日蘭協会の
パーティーで松下家の世襲を批判。

「創業者(故松下幸之助氏)の孫というだけで松下正幸氏が
副社長になっているのはおかしい」と語っている。


 『史記』にも、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり」とある。
上役への異論、反論にこそ、リーダーが本当に耳を傾けるべき、
有益な内容と刺激が含まれているものである。


 第一には、異論、反論はリーダーの指示や意向の間違い、
不完全さを発見できる手がかりになり、仕事上の失敗を
未然に防ぐのに役立つ。

第二には、上役に直言、諌言することほど組織員にとって
恐いことはない。それをあえてするというのは、彼に
よほどの覚悟と自信があるからだろう。

当然、そこには耳を傾けるだけの価値がある。(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

部下から「カウント・オン」されるリーダーとは 2 

20170201川上光正先生ブログ
(前回のつづき)
部下の成功を横取りしたり、一人占め
したりするリーダーもいる。


「今回のプロジェクトほど苦しいものは
ありませんでした。我ながらよくやったと
思います。
部下の尻を叩いて、ここまで引っ張って
くるのはたいへんでした」


などと、成功の要因を
ちゃっかり一人占めして、
上司に売り込んでいる幹部も
よく見かけるところだ。


こういうリーダーほど、部下をくさらせ、
信頼を損ね、彼らの意欲をつみとるものはない。
リーダーたる者、部下の失敗を自分の責任に
するだけの度量を備えていなくてはならない。


英語に「カウント・オン・ミー」という言葉がある。
直訳すると、私を勘定に入れてくれていい、
私も一緒にやるという意味になる。


 つまり、私を当てにしてくれていいぞ。
責任はオレが取るから、君たちは安心して
仕事を全力でやってくれというリーダーの
態度表明の言葉である。

それが部下を発奮させ、
「この人がいれば安心だ」
「いざというときは部長が胸を叩いてくれる」
 と部下の意欲と信頼感をかき立てるのである。


 単に組織上、職制上の「上役」であるから
人がついてくるのではない。
それだけでは単なる管理者である。

真のリーダーとは、責任はオレが取るぞ
という揺るぎない態度と、手柄を部下に
ゆずれる寛大さを併せ持った人のことをいう。

部下から、あの人こそオレたちのリーダーだと
「カウント」されなくてはならない。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

部下から「カウント・オン」されるリーダーとは 

20170115川上光正先生ブログ

漢の武帝につかえた官僚に張湯という人物がいた。
地方の小役人から漢の副宰相になった有能な男である。


 彼は単に切れ者であっただけでなく、人間関係の処理にもたくみで、部下の評判もよかった。
彼の人心収らん術の要諦は「功は部下に譲り、責は自分が負う」点にあった。


 あることで武帝の判断をあおぎ、不備を指摘され、叱られる。
すると張湯は謝罪し、帝の意向にしたがったが、それだけでなく、自分の部下の中から有能な人間の名をあげて、「その点はまさに、某が私に指摘したところです。


しかし、それに私は耳を貸しませんでした。
責任は私にあります」とつけ加えるのを忘れなかった。


 逆に、張湯がほめられた場合には、やはり部下の名をあげて、
「それは某という部下の具申であって、私の意見ではありません。
彼のいうことを私はそのまま取り上げたにすぎません」
 失敗は我が身に帰する一方で、手柄は部下に譲ったのである。


 これは、人間のできた人物でもなかなか行いがたいことであるが、
部下を心服させるためにはリーダーに欠かせぬ条件でもある。


ある仕事が成功裡に終ったとき、
 「よくやった。すべて君たちのおかげだ」
 と手柄を部下に譲ることが何より大切だ。この時、
 「いいえ、これも部長の指導のおかげです」
という答を期待してはならないのも、リーダーの辛いところである。


 実際には、この逆のリーダーが多い。
つまり「手柄は自分に、責任は部下に」のタイプだ。
ある仕事がうまくいかなかったとする。
「君のせいだぞ、どう責任を取るつもりだ」
「だから私は最初から反対だったんだ。オレは知らんぞ」
 などと不手際の責任を部下に押しつけて、自分は知らん顔をしている。


一方的に部下の非を責めて、自分の責任問題には口をぬぐっている。
もう、これだけでリーダー失格である。(次回へつづく)


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

リーダーは「棹」をどう入れたらいいか2 

20170101川上光正ブログ


(前回のつづき)
私も部下を信頼して仕事を与え、その進行方法などには口出しをしない。
質問や報告は密に受ける。肝心なポイントのみアドバイスや指示を与え、口出しをしすぎないようにしている。


 不必要にリーダーが指示を出したり、助言をすると、部下が萎縮したり依存してしまうし、いつまでもリーダーの指示なしでは仕事が進められない〝指示待ち族〟になってしまう。


といって、まかせっ放しにして報告も受けないのでは、仕事の方向の軌道修正ができなくなるし、部下の気持ちの負担にもなる。


 「おまえに全部まかせるから好きなようにやってみろ」というまかせ方を意気に感ずる部下もいれば、「どうしよう、私には責任が重すぎる。できっこない」と負担にしか感じない部下もいる。


だから、信頼しても放任してはならない。そのつど、報告を受け、相談にのる必要がある。


 そのへんの機微を私は、
「棹を入れないと、(仕事の)流れがわからない
 棹を入れすぎると流れがつかえる
 棹を置きっ放しにすれば流される
 棹は適度に入れて、入れたらそのつど抜くことだ」
 と表現している。


 情に棹さして流されないように、棹を自分でしっかり持って、自由に操作することでもある。
日常の業務は部下が自主的に行い、最終的な責任は上司が負う。


上司なしでも仕事は進められるが、上司がいないと不安だ、上司がいると心強い。
そう部下から、精神的に「あて」にされるリーダーが実はベストなのである。


リーダーは組織の象徴的存在――リーダーなしでも仕事は進むが、リーダーなしでは組織が成り立たない――であることが望ましいのだ。


 そのためには、ふだんは厳しく接していても、「思いきりやれ、責任はオレが取る」という毅然とした態度が要求される。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

リーダーは「棹」をどう入れたらいいか 

20161217川上光正ブログ


 知り合いの出版社の幹部と雑談していた折、こんな話を聞いた。


「先生、私の役職は編集長ですが、部下の編集部員からはいつも〝無視〟されています。


編集長なんかいてもいなくても同じですよ、といつも部下に言われてますし、たまにセキ払いしたときに、ああ編集長いたんですか、てなものです」


 彼は二コニコ笑いながら、さらに続けた。


 「先生、部下をそこまでにするのに苦労したんです。
部下が私の存在を忘れ、私なしで仕事ができるように育てるまでに・・・。


彼らは私を無視したほうがよい仕事をするんです。
ですから、どんどん無視してくれていい。私は彼らを無視しません。


いつも見て見ぬふりをして、彼らを見守っていき、しめるべき手綱はしめます。
最終的な責任はいつでも私が取る覚悟です」


 これを聞いて、私は感心した。


 ふだんは細かいことはいわないで、部下の能力を自由に発揮させるが、仕事にはいつも目配りして、責任は自分が取る――こういう態度が人の上に立つ者にもっとも重要だからだ。


 この編集長の言葉には、いくつか学ぶべきものが含まれている。


責任感の大切さ。


それから、部下が上司の助けなしで仕事を進められるようになるまでの人材育成の重要さ。


そしてもう一つ、「信頼して仕事をまかせることと放任は違う」という点である。


 部下に仕事をまかせっ放しにしてしまうことを、部下への信頼感を示すことだと思っている大がいるが、それは違う。


放任はまかせっ放しの無責任だが、真の意味で部下に仕事をまかせるとは、仕事を与え、見守り、適当にアドバイスをし、最後に責任を取ってやることなのである。(次回へつづく)


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

真のリーダーは瞑想の習慣が必要(2) 

20160702川上光正ブログ (1)

 暝想の本質を多少解りやすく説明すると「瞑想とは、自己の意識を内面に深く向けていくための行為であり、自己の中に存在するほんとうの自分の心、魂としての純粋意識と、その奥に存在する美しい至純な心、自己の中の神である宇宙真理との出会い、合一を目指し高次元の精神活動から悟り、自己解放へ到達するための創造的意識活動」である。


 それは攻撃的でなく受容的である。雄弁よりは沈黙である。刺激ではなく鎮静である。高揚感よりはむしろ沈静である。念の発信でなく受信だ。心の平和、情緒の安定によって人間が本来、備えているすばらしい創造性や潜在能力が泉のように湧き出てくる。それを可能にするのが瞑想である。


 瞑想は「知」を生み出す行為というより、むしろ、己を無我の状態にすることによって自己の小宇宙からの天啓を「引き出す」行為だ。外目には、じっと目を閉じて、あたかも無念無想・不動の姿勢に見え、「休息」のように映るが、実はきわめて「創造的な行為」なのである。


 しかも、ふだん眠っている潜在意識や潜在能力を顕在化する、精神の哲学的行為である。


 しかし、多くの人は自分の中に眠っている潜在意識や潜在能力について知ろうとしていないようだ。


 歴史学者のトインビーは、「現代人は何でもよく知っているが、自分のことだけはよくわかっていない」と言っている。


 確かに、自分の「内在的可能性」について人間は盲目のようである。何故か。それが自分の中に深く眠っているからである。私たちの眼球が目の裏側だけは見えないのと同じである。その内側への視線、それを手にできるのが瞑想を含むクンダリニーヨガなのである。


 リーダーは真の成功者になるために、ヨガと瞑想を実修する必要があろう。 

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

真のリーダーは瞑想の習慣が必要 

20160702川上光正ブログ (2)


 ヨガと聞くと、一般の人は座法(アーサナ)と暝想だけで成り立っていると考えがちだろう。「あぐらをかいて目をつぶる」というイメージが強い。


 しかし、ヨガの真の行法はもっと複雑である。複雑というより、システマティックにできている。心構えからはじまって、どういうポーズをとったらいいのか、呼吸法は、五感を制御する方法は、といった、いわば「身体」に関する行法へ進む。


 つぎには、凝念(ダラーナ)と呼ばれる意識の集中法、無我の境地をつくり出すための暝想法などを学ぶ「精神」の行法――という具合に、しだいにレベルアップしていけるよう、実修法は八段階に分かれている。


 このうち、凝念や暝想、いわゆる三昧(サマーディ)の境地に至る精神的営為を総称してラージャヨガという。体の健康や管理を目的とした身体的なヨガがハタヨガであるのに対し、ラージャヨガは意識・精神の統一を目的とした精神的ヨガであり、心と愛を育む教義でもある。


 したがって、集中力を高めようといった理由で瞑想を試みる人は、本当は八タヨガからはじめてラージャヨガヘと段階的に至らなくてはならない。


 さらに、高次な意識と出会うヨガとしてクンダリニーヨガがあり、人間の本質である精神の哲理を探求する道へと進むのである。


 しかし、そうした本格的なヨガを学ぶには時間が足りないという人には、もう少し簡便な暝想法もないではない。たとえば、一日二十分ほど誰にも邪魔されずに静かにすわり、目を閉じて、ゆっくり呼吸してみる。こういう習慣を身につけるだけで、暝想の効果の一端はたしかに得られる。


 暝想中の脳波はアルファ波であることが科学的に確かめられている。アルファ波とは、日常の緊張やストレスから解放された状態を示す脳波である。それに対して、日常生活の緊張状態を表すのがベータ波である。


 つまり、暝想によって仕事や日常生活における緊張をほぐし、ストレスを和らげて、その人の能力、感性、精神力を全開にし、最良の状態にしてくれる。そうした効果が簡便な暝想によっても得られるのである。


 悩みや迷い、不安、苛立ち、ストレス、抑圧がほぐされ、温湯にひたされたような精神的安定と身体的快感。自己の内面をじっと凝視することからもたらされる静寂。研ぎ澄まされてシャープになった感性と、人を思いやるやさしさ、そして、宇宙の無限空間へ溶暗していくような一体感――。

そのような、いわくいいがたい精神的効果が瞑想からもたらされるのである。
(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)


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