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困難なことほど実行する価値がある 

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歴史小説というジャンルの中で〝日本人のかたち〟を問い続けていた作家・故司馬遼太郎氏は以前、新聞紙上で次のようなエピソードを語っていた。
 司馬氏が日本文学研究者のドナルド・キーン氏と京都の銀閣寺で対談したときのこと。庭園の砂があまりにも美しかったので、司馬氏が、「これを建てた足利義政はえらいものですな」とつい感慨をもらした。するとキーン氏はすかさず、
 「応仁の乱をよそに見て、こういう建物をつくる為政者を尊敬できますか」
 さしもの司馬氏も一本とられた形だったという。
 民の苦しみをよそに栄華を誇るリーダーを、人々は恐れることはあっても、また軽蔑はしても、敬い慕うことは決してあるまい。
 みずからの地位と権力を利用して私腹を肥やす政界のリーダー、利権に群がり既得権にしがみつく財界のりーダー――その姿は怒りを通り越して、むしろ物悲しい。地位や権力には、水が低きへ流れるように利権が集まってくる。その地位、権力が強大になればなるほど利権は莫大になっていく。だからこそ、人は地位を欲しがるし、一度手にした権力を手放そうとはしなくなる。そうした〝うまみの構造〟が厳然として存在する限り、汚職はあとを絶たないだろう。
 だから、必要なことは、「奴らは汚い」という批判より、「仕方ないさ」という諦めより、その〝うまみの構造〟を改正する制度的な現実的な処理であろう。もう一つ必要なのは「偉いんだから、もらって当たり前だ」という精神構造を変えさせていくことだ。
 「李下に冠を正さず」という。人の上に立つ者は、その地位と権力ゆえに、つねに身辺をきれいにし、執着心をなくし、お金に淡泊であり、私利より公利、私益より公益を優先させなくてはならない。
 利己的な欲望を克服し、集団のためには自分の損失や自己犠牲もあえて辞さない姿勢、勇気。それがリーダー、経営者に要求される資質である。
 こういうと、再び「それは理想論だよ。青くさい書生論では現実は動かない」という声が聞えてきそうだ。
 だが、お金で人を動かしたり、地位を利用して甘い汁を吸うことなど、その気になれば誰にでもできるのである。誰にだってできることなどリーダーたるべき者はすべきではない、と私は思う。
 なるほど、人間は弱い動物で、地位や権力を持ったらそれを濫用してみたくなるのが人情というものだろう。みずからエリを正せ、というのも理想論かもしれない。理想論は実行することが困難である。
 だが、困難だからこそ、実行してみる価値があるのではないか。簡単なことなら他の誰かがするだろう。難しいことにチャレンジすることこそが、人の上に立つリーダーの責任であり、また「権利」なのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記

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心の絆づくりは観察力から出るひと言 

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私の観察癖は実は子供時代からのことである。
 小学校五年の時、担任の先生から、
 「これを本当におまえがつくったのか?」
と疑われるほど精巧な鳥籠(目白カゴ)をつくったことがあるが、その製作方法を私は誰からも教わらなかった。
 ただ、学校からの帰り道、近所に住む青年が目白カゴをつくっている過程を、あきもせず、一時間でも二時間でもじっと眺め、観察していた。材料となる竹の削り方、曲げ方、接着法、組み方――それらを穴のあくように見つめ、
頭の中に焼きつけて、家に帰ってその通り再現していく――その方法をくり返しただけである。
 それで、大人たちから「わしにもつくってくれ」と注文がくるほど精巧なカゴができあがったのだから、自慢するわけではないが、その頃の私の観察力や集中力、根気は人よりは少し勝れていたのかもしれない。
 現在では、自分の観察好きを絆づくりに応用している。
 例えば、私が主宰するヨガスタジオ及び経営・瞑想塾へ実修にやってくる経営者の喜怒哀楽や情動を現わす表情や癖を覚えておいて、その日の彼らの感情レベルをそこから判断する。「社長、今日は爽やかな顔ですね。何かいいことでもありましたか?」などと、その日の感情、表情レベルに合わせた声をかけたりもする。
 人を導く者は、こうした日常的な細かな気くばり、心づかいを「ささいなこと」と軽視したり無視したりしないほうがいい。人の心の掌握や絆づくりは、ささいな毎日の感情の交流から始まるものだからだ。それは絆づくり、人脈づくりの要諦でもある。
 「士は己を知る者のために死す」という。
 自分の感情をわかってくれ、心を理解してくれるリーダーに人は力を惜しまないものである。
 ましてや、部下の心をうまくつかみ絆をつくるには、上に立つ者のささいな一言が大切になる。肝心なときにその一言を言うためにも、日頃、部下をよく観察しておくことが必要である。

(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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出版記念・誕生祝賀会が催されます! 

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癒しの光っちゃん 川上光正 記


観察力を鍛える「ものさし」をもつ 

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私は鞄やポケットにいつも「巻尺」をしのぼせている。そしてたとえば、教室の家具などを購入するときには机やキャビネットの幅や奥行きを巻尺をとり出して実際に測ってみる。店員がもの珍しそうに見ている、そんな測定癖がある。
 巻き尺を持っていないときは、掌を尺取虫のようにしてモノの長さを測ることもある。大きなモノは両手を横いっぱいに広げてそれを“ものさし”がわりにする。そのため、両腕を広げたときの長さは180センチ(身長より10センチ長い)、親指と人差し指を広げると20センチと知っている。
 また、そうした“ものさし”を使わなくても初対面の人と会ったときなどに、その人の身長、体重、肩幅、胸囲など各サイズを目分量で推し量ることもよくある。
「あの体格、身長からみて体重は65キロくらいか」と見当をつけるのである。この“目のものさし”にもあまり誤差はない。
 この測定癖は趣味でも粋狂でもない。
 モノを測定することは物事の観察力をきたえることに通じる。あるモノの形状、大きさを測定することは、その対象の性質や本質を観察することに他ならないのである。
 その対象が「人間」であっても同じである。ある人の顔、表情の変化、しぐさ、ふるまいをじっと測定しているとその人の人となり――性格、資質、能力、環境などが次第に見えてくる。
 3年前、メル・ギブソンが主演する「マーヴェリック」という凄腕のギャンブラーを主人公にした映画を鑑賞したが画面から伝わる彼の観察力に興味深いものがあった。
 ポーカーゲームをするのだが、最初の一時間半はまったく勝てない。だが、その間にプレイヤー全員の癖をつかんでしまうのである。いい手ができた時の癖、掛け金をつり上げる時の癖、絶対に勝てる手ができた時の癖などを、相手のチップの置き方や表情、カードのいじり方などで把握してしまうのである。
そしてその後は連戦連勝・・・。
 イカサマは絶対にしないというポーカープレイヤーの彼は、「条件はどっちも変わらない。要は観察力だ。相手の癖を見抜いたら勝てる。それが勝利の秘訣だ」という。相手の癖を盗み合うポーカーゲームの醍醐味を観察できて、なかなか面白かった。
 ともあれ、観察とはまず測定からはじまる。観察力は判断力の“ものさし”“尺度”となり、それが洞察力を養うのである。
 豊臣秀吉がのちに彼の参謀となる石田三成を見出したとき、三成はまだ寺の小姓であった。あるとき、秀吉が茶を所望すると、少年の三成は最初にぬるめの茶をたくさん、2杯目は熱めのものを7、8分目、3杯目はさらに熱い茶を
少量持ってきた。
 これをじっと観察していた秀吉は「この小姓、使える」とその才覚を見抜いて、城にとり立てたという。最初はのどが乾いているから、すぐにたくさん飲めるようにぬるい茶を大量に持っていき、しだいに熱く少なくしていった三成の機転を秀吉は買ったのである。要するに、雑用をどうこなすかでその人の能
力はかなりの程度推し量ることができる。
 物事や人の本質は案外、目に見えるところで測れるものなのである。測定力、観察力が洞察力に通じるとは、そういう意味でもある。
 リーダーや経営者はさまざまなことで、つねに決断を迫られている。決断――これはよし、あれはダメ、物事の是非、善悪を決めるためには、自分の中に「判断力のものさし」を持っていなくてはならない。その「ものさし」をつくるのは日頃の観察力なのである。


(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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「足るを知る」生活を心がける 

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 人間の欲というのは、「程度」というものを知らない。一億円手に入れたら十億円欲しくなるし、十億円懐に入ってきたら、次には百億円欲しくなるものだ。ところが、以前、テレビでインドネシアのある小さな島の島民の暮らしぶりを紹介していたが、感じるところ、学ぶところが大変に大きかった。
 そこは赤道直下の耕作地に乏しい小さな島で、そのため島民のタンパク源の大半は、夏に姿を現すマッコウ鯨に頼っている。たいへん貴重な食料だから、獲れるときにできるだけ捕獲してストックしておこうとするのが通常の“経済観念”というものである。少なくとも日本人ならそうするだろう。
ところが、そこの島民は年間に十頭くらい、住民全員がギリギリ必要とする分だけを確保して、それ以上は獲ろうとしない。需要分に見合う量があれば、それで満足なのである。以前はそれでも、近代的な捕獲法によって大量捕獲していたこともあったらしいが、必要以上の量を獲っても結局、鯨の絶対数を減
らして、自分たちの首を絞めるだけだと気づいて止めたという。今では廃船と
なったその近代的な捕獲船が砂浜に打ち上げられているシーンが画面にも映っ
ていた。
 つまり、必要以上に獲らない、必要量あればそれで自足して、それ以上は望
まない――「足るを知る」ライフスタイルを貫いているわけである。
 ここには、日本人が忘れてしまった生活態度が生きていると思った。
 地球資源の確保に関連して、動植物の乱獲が世界的な問題になっている。捕
鯨問題も政治的思惑までからんで、なかなか結論が出ない。私自身いわゆる
「肉食」はしていないが、それについては反対も賛成もしていないし、人に「肉を食べてはいけない」と強制するつもりはない。生態系の中で、人類が生
きていくために動物を殺して食料にすることは、ある意味でやむを得ない場合
もある。イヌイット(エスキモー)がアザラシを狩猟するのは、生存のための
ギリギリの行為、選択なのだろう。だが、それだけに過剰な殺生はしない。イ
ンドネシアの島民と同じように、必要以上は殺さないのである。
自分たちの生存に必要な大切な食糧を乱獲することは、すなわち自分たちの生命を脅かすことだ。この単純な事実を彼らは自然の生態系の中に生きること
で、おのずと熟知しているのである。
 そこにあるのは、動物や自然との「共存共生」の思想であり、自然の一方的
支配ではない。日本人をはじめ、あらゆる文明人は、自然は支配、管理するも
のだ、できるものだというおごりをいつの間にか身につけてしまった。食糧だ
けでなく毛皮や飾り物のためにも動物を殺すというのは、明らかに無益、無意
味な殺生であり、人間の越権行為である。
 このおごりを戒めるのが先述した「知足」、すなわち「足るを知る」哲学であると私は思う。
 分相応をわきまえて、必要以上を望まない。自然から与えられた恵みで自足
して多くを欲しない。この「足るを知る」ライフスタイルこそが、ともすれば
限りなくふくらんでいく人間の欲望を抑制する最良の方法である。
「欲しいものが手に入らないときは、手に入れられるものを欲しがれ」と、
西洋の賢人も言っている。それが人間の叡智というものではなかろうか。



(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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