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奥義書『ウパニシャッド』が説く経営哲学 

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 金を残すのは下の下、名を残すのは中の中、人を残すのは上の上――組織を率いる人間の心得として肝に銘ずべき言葉であろう。
 私はこれをさらにランクアップして、
  財を成し財を輝かすは二流
  人を成し人を輝かすは一流
  愛を成し魂を輝かすは超一流
と考えている。
  企業活動が経済行為の一環である以上、利潤追求の側面を有することはある程度いたしかたない。「より儲けよう」という姿勢がそこに働くことは否定できない。
だが、それだけでは「商」のみあって「哲学」なしということになってしまう。
 企業経営の目的は、利のみを図るだけではない。それと同等に、いや、それ以上に「人を育てる」「信(社会的信用)をつちかう」「愛(人間的つながり)を育む」「人格を磨く」といった哲学的な目的もある。そうした多様で総合的な行為がすなわち真の企業活動なのである。
 利を追求して財を成す。そういう時期があってもよいが、いつまでも利潤追求だけではいけない。次の段階では、成した財の社会への還元を考え、それを実行する。その理念の実践がひるがえって、己の人格をも研磨してくれるというのである。
 京セラや第二電電を創立し電気通信事業も手がけてきた稲盛和夫氏は「企業活動を通じて社会に貢献する」ことをみずからの理念とされ、科学や文化の振興のために公益法人の財団を設立するなどして、いわば企業利益の社会還元を実践されている。
 さらに稲盛氏は「欲望には際限がない。足りないと感じるのは心が貧相だから」と悟り「財産は世の中から預かっているものだから、ごく一部は子孫に残すが、大半は財団に寄付する」と。
 一九九七年三月、稲盛氏が所有する京セラの株式三百万株(二百十億円相当)を氏が理事長を務めている稲盛財団の基本財産として寄付している。
 己の利のみを図るのではない、みごとな経営哲学の実践と敬服するが、肝心なのは、氏が、経営を伸ばし、社会に貢献することは単に名誉の問題でなく、そうすることで自分の「心を高める」ことが可能になるとされている点だ。
 氏の言う「心を高める経営」は、私の言葉でいうと「魂の喜ぶ経営」となるだろう。
 稲盛氏は著書『敬天愛人』(PHP研究所刊)の中で「現世とは、心や魂を純化させるための修行の場である。人間は、少しでも自分の心を高めるため、この現世に生を受けている。少しでも高いレベルに自分の心を置くことができれば、より素晴らしい人生が送れるからである。本来、愛と調和と誠に満ちている真の魂に、一歩でも近づく努力を大切にしなければならない。(傍点は筆者)と考え、経営の第一線から退く決意をした」と述べている。
少し気になるのは、氏が六十五歳を迎えたのを機会に、仏門に入ると公言し平成九年九月七日に〝得度〟を受けたことと、平成九年六月、胃ガンの手術をしたことである。胃ガンの手術は一応成功したようだが、再発しないことを祈っている。仏門に入る理由は、「自分とは何者なのかという思索を巡らすことなく人生を終わらせたくない」と言っているが、その理由は理解出来る。しかし、果たして仏教だけで自己探求が可能だろうか。
 仏陀は、仏教で悟りに達したのではない。ムニやリシなどヨガ聖者の指導によってヨガと瞑想を実践した結果にほかならない。悟りに達したあと、仏陀は自己の教義・仏教の原典を開発したのである。私は、稲盛氏が求めている「自分とは何か」を探すのには、やはり仏教とは異なった『ウパニシャッド』の精神哲学にその答があるのではないかと考えている。
 奥義書『ウパニシャッド』は、古代インド最古の聖典であり、その一行一行が叡智に富んだ、近代の西洋哲学者にも多くの感動と示唆を与えた珠玉の哲学思想書である。それは不肖、私の発想や思考の源であり、哲学原理を形づくった根本でもある。私自身の存在は『ウパニシャッド』より出で、『ウパニシャッド』に還っていくと言っても過言ではない。その『ウパニシャッド』の一節に次のような件がある。
 『人はじつに財産によっても満足することができない。もしもわれらが汝(死神)を見たとき、われらは財産を保持し得るであろうか?〔生死をつかさどる〕汝の支配するかぎり、われわれは生存し得るのであろうか?』
                       (ibid. I,26-27)
 『かれの心臓に宿った一切の欲望が解き放されるとき、そのとき可死なる[人]は不死となり、ここにおいて絶対者(ブラフマン)に達する』
                         (ibid.VI,14)
 死の前には財は無力である。現世の利益は〝あの世〟へは持っていけない。また、己を利する心、利潤追求の心を離れた時にこそ永遠の生命が手に入り、己の魂=純粋精神(アートマン)が梵=宇宙真理(ブラフマン)へと止揚されるという教えである。
 欲を満たし、財を成すだけでは人はついに満たされることはない。心の平安・平和も得ることはない。
欲を離れ、財に淡であることが心を清め、魂を高めることに通じていく。そのとき、経営活動が理念化し、その経営理念が経営哲学、精神哲学へと昇華されていくのである。
 きれいごとだと言う人もあろう。だが、稲盛氏をはじめ、故人の松下幸之助氏、本田宗一郎氏といった一流の経営者には、己の欲を離れることの大切さがわかっていた。そうした『ウパニシャッド』の思想に近い精神哲学を理解し、有していたがゆえに、彼らは一流の経営者となったのである。
 どんなリーダーや経営者、組織の長にも、欲を離れ、魂を高めることの必要性、言い替えると『ウパニシャッド』の精神哲学に目を向けることの意義は理解いただけると思う。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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http://kawakami-yoga.com/

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才なくて徳あることを喜ぶ 

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 かつて、小説家の太宰治が芥川賞候補にあがったとき、選考委員の川端康成は太宰の文才を大いに認めながらも、その私生活の乱れを懸念して、「才あって徳なし」と評した。
 太宰はそれを聞いて、「いや、私は徳あって才なし」だと抵抗するようにつぶやいたという。才と徳、つまり、才智と徳望。この二つの人間の属性はときとして矛盾、対立して相入れないものとなるようだ。
 頭が切れ、力量・手腕も人並みすぐれている。知識も豊富で、弁舌もたくみである。それなのに、仕事の成果はいまひとつ上がらず、人間関係もうまくいっていない人がいる。
 一方、学識や才能はさほどのものではなく、どちらかといえば口下手で、仕事のスピードも速いものではない。にもかかわらず、人から好かれ、信用を得、その結果、仕事も順調にこなしていく人がいる。
 ややステレオタイプな分類だが、前者は才あって徳なし、後者が徳あって才なしの場合が多い。
 よく、手腕があり、才智に長けていれば、どんな物事をも成しとげ、願望を実現できると錯覚している人がいるが、それは才あるがゆえのおごりと言わねばならない。どんなに才智あふれる人でも、自分一人でできることはそんなに多くない。
 社会とは人の集合体である。その社会の中で物事を成就していくには、人々の信用と協力を得る必要がある。どんな崇高な政策をもっていても、票を集めて政治家にならなくては、それを行政に反映できないのと同じである。
 では、有権者の信用と協力はどうしたら得られるか。票は金で得られるかもしれない。しかし、信用を得るのは、その人の「徳」である。徳望なしでは才智はあっても、人の信頼は得られず、物事も成就、達成できないのだ。
 人々が、ある人に信を寄せ、徳をあおぐのは、その人の才や識に対してではない。人格の力である。
 企業のセールスマンでトップの成績を上げるのは、どんなタイプかご存じだろうか。頭の回転が速く、立て板に水式の流暢なセールストーク術をもつ才気走った営業マンかと思うと、さにあらず、朴訥で不器用な話し方しかできないが、それゆえに人柄から誠実さがにじみ出ているタイプの営業マンなのである。
 要は、その人格から「信」が感じられるかどうか、「徳」が感じられるかどうかの差なのだ。
 学識や才能にはとくに恵まれていなくても、陰日向のない正直さ、嘘をつかない誠実さ、はったりを口にしない着実さ、人と和をかかさない円満さ、たゆまぬ努力、決してあきらめない粘り・・・そのような特質を目立たず確実に発揮して、人びとの信頼を集め、世の中を順調に渡っていく人。周囲を見渡すと、必ずそういう人がおり、人の上に立つリーダーとなっているはずだ。
 才というのは利を生むかもしれないが、その利は長続きしない。才だけでは徳を生まないからである。悪徳商法で一時的に儲けても、結局、その正体を暴かれ、社会的に糾弾され、わが身の破滅を招いてしまうのがよい例だ。才は一億の利を生むかもしれないが、人の信を得られない。徳は人の信を呼んで、人の利を得るのである。
 才智と徳望はウサギとカメともいえる。ゆっくり一歩一歩行くカメが、結局は才にまかせて走り、おごるウサギに勝つように、徳は才を上回るのだ。
 また、才は新しい才によって乗り越えられるが、徳は次の徳と共存できる。だから、人の上に立つリーダーはもちろん、すべての人に私は言いたい。才なきことを嘆くな、徳うすいことを戒めよ。才なくして徳あることを喜べ、と。
 徳は、人格の力を磨き、人を集め、吸引する。人間の第一歩の属性である。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記

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リーダーは出処進退をきれいにする 

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 リーダーの引き際ほど難しいものはない。
 引き際を誤って晩節を汚してしまったというケースは珍しくない。惜しまれて辞めるのがいちばんだが、それがなかなかできないのが権力者の性というものである。
 談合、贈賄で揺れる大手建設会社のトップが、兼任する経済団体の長を辞任するしないでもめたことがある。経済団体と会社は別だという理屈で、この人は辞任を拒んだが、李下に冠を正さず、疑われたらそれだけでも責任を問われるのがリーダーというものだ。そのことが、この人にはわからなかったらしい。
 人間の引き際、出処進退の難しさについては『宋名臣言行録』にこんな件がある。北宋の官僚・王安石は新法を施行するときに、才気あふれる能吏ばかりを要職につけた。
 それを懸念した司馬光が理由を問うと、
「当初は才人を使って新法を定着させ、その後、老成した人物にポストを替えて、これを守らせるつもりだ」と、答えた。知恵者に行わせ、仁者に守らせようというわけである。
 これを聞いた司馬光は嘆息して言った。
 「優れた人物というのは、要職を与えるときには遠慮して、これをなかなか受けないものだ。しかし、そのポストを辞めろといわれた場合には、さっさと身を引く。その出処進退は実にあざやかなものだ。これに比して、才智あれども小者は、要職をすすめられれば喜んで受け、一度得た地位は執着して手放さないものだ」
 王安石の狙いはわかるが、才人というのはポストにこだわるから、その人事は果たてうまくいくかどうか、とあやぶんだのである。結局、その忠告どおり、王安石はクビにされ恨みを含んだ小者官僚に告げ口され、それがもとで失脚してしまった。
 それほど出処進退はむずかしく、その決断をスパッとできるかどうかがリーダーの試金石となるということである。
 一般に、進むのはやさしいが引くのはむずかしい。引くときには責任がともなっているし、それまで築き上げたものを手放すことになるのだから、しがみつきたくなるのが人情かもしれない。
 だが、進むべきときに進み、引くべきときに引くことがリーダーの身の処し方として大切だし、指導者の重要な心がまえである。
 リーダーたる者、いつでも身を引ける覚悟を持っていてほしい。というより、そうした覚悟を有している者にしかリーダーの資格はない。辞意をもらして、引き止められるようでありたい。
 地位や名誉にこだわらない心と、辞める時期を過たない判断力。そして、辞めようと決める決断力、それがリーダーには必要である。


(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


リーダーが持つべき「宗教心」とは何か 

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 戦後何度目かの宗教ブームもここに来て、色あせてきた感じがする。しかし、時あたかも世紀末、これまでの物質中心主義の世界観が行きづまりを見せる一方で、管理社会の息苦しさから脱出したいとする願望も、人々の間に高まっている。そうした時代的、心理的背景が人びと――とくに若者を宗教の〝神秘性〟へと駆り立てるのだろう。いわば、合理性に疲れて非合理性を求める人がふえているのである。
 それ自体は間違っていないが、問題は彼らの〝受け皿〟である宗教団体に宗教の本質から逸脱した組織が多いことである。現在、問題がある宗教団体の大半は、安易であるか、攻撃的であるか、排他的であるか、さもなくば金目当てか、だいたいこれらに分類されてしまう。
 安易というのは、教祖を神格化、絶対化して個人崇拝を強いたりする(それでは旧ソビエトのスターリン崇拝やナチスのヒトラー崇拝と変わらない)点や、メシアがやがて現われこの世の難問題を一挙に解決してくれるといった黙示録的な「幻想」を振りまく点である。
 攻撃的というのは、世界各地で絶えない宗教戦争や日本でも見られる宗派同士の内部抗争。今も続いているイギリス・北アイルランドのカトリック系住民とプロテスタント系住民の衝突も同じキリスト教の流れを持つ宗教的な争いのようだ。それに、外部の一般の人たちと無用な軋轢を起こす団体、調和と平穏を目指すはずの宗教がなぜ争いをくり返し、殺人をやめないのか。「目には目を」といった報復主義のにおいの強い教えを説いて平然としている。
 排他的でもある。典型例が旧約聖書の「ノアの箱舟」のエピソードである。「主はノアに言われた。さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけは私に従う人だと私は認める。・・・」と、主は、主に従う人を箱舟に乗せ助け、他の人や動物は助けないという、一種の選民思想のような考え方に貫かれている。
 旧約聖書(日本聖書協会刊)、民数記・二十八章には、献げ物の規定がある。日ごとの献げ物「無傷の一歳の羊二匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、毎日、朝夕に一匹ずつ、ささげなさい」・・・三十一章には「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々が、ミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい。その後、あなたは先祖の列に加えられるであろう』・・・ (中略)彼らは主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにし
た」と。象徴的な意味合いは別にしても、一部の人しか救わない、そして生贄、報復、戦いの思想や教えはとても主、神の言とは思えないのだが。
 新興宗教の拝金的体質については言うまでもなかろう。人の弱みや不安につけこんで法外な料金で物品を買わせたり、先祖供養と称して財産をまきあげたり、これらはもう言語道断である。
 いずれにしても、宗教の本質からは大きくずれている。このような団体に救いを求める人があわれである。精神の暗いトンネルから抜け出たくて光を求めたのに、別のトンネルヘ引きずり込まれたようなものだから。
 宗教について語ることが本書の目的ではないし、私は宗教(救いを求める行為)そのものをあえて否定もしない。その教義や本質を理解しようとはするが、それを必要以上に持ち上げたりおとしめたりもしないつもりだ。
 ただ、宗教(団体)や単純な信仰心を突き抜けた向こう側にある「精神哲学」の光を感じてほしいと願う。神が自分の「外」にあるとする宗教より、それは自分の「内」にあるとする哲学を学んでほしいと思う。いってみれば、宗
教よりは精神哲学、「救い」よりは「悟り」、聖書よりはさらに古い、古代インド哲学の奥義書『ウパニシャッド』、現世の利益よりは魂の平安――そして、全人類の愛と平和と平等を願う博愛の精神を持つよう努力してほしいと思うのである。
 私は問題を起こしている宗教団体には疑問を持っているが、宗教心や信仰心は人間にとって不可欠なものだと思っている。大自然や大いなるものに感謝する気持ち、人の死や不幸をいたむ気持ち、人を許したり受容する気持ち――そうした倫理的宗教心は人間にとって第一級の資質である。ただ、そうした宗教心と、宗教組織とはおのずと別であるということを、よく自覚してほしいと思う。
 教祖が民主的な選挙で選ばれて運営されている教団があるとすれば、宗教改革への道が開かれるかもしれない。
 宗教心は人を謙虚にし感謝の心をうえつける。人は謙虚になったとき、自分は生きているのではなく、「生かされている」のだと知り感謝の念がわく。そして、はじめて心の平安を手に入れることができるリーダーが持つべき〝宗教心〟とはそうした感謝の念なのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


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