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己を捨て部下を活かす責任感2 

20170415川上光正先生ブログ


豊臣秀吉が毛利と戦ったとき、高松城を
水攻めにしたことはよく知られている。

秀吉の大軍と水に囲まれて、
食槐もっきはてた高松城兵は
死を座して待つという状況に追い込まれた。

このとき城の守将・清水宗治は己の命と引きかえに
城兵の命を助けるという、秀吉側の講話条件に応じ、
敵味方が見守る船上で割腹した。


 現代のリーダーが腹を切ってまで責任を負うことは
あり得ないが、自分の命を捨ててまで部下の身命を
救う責任感の重要さは本質的に変わらない。


「いつでも俺が責任を取る」という
リーダーの覚悟が部下を動かし、統率するからである。


 「一将功成りて万骨枯る」という言葉がある。
一人の大将が名声を得るそのかげには、
多くの兵卒の命が失われている。


たくさんの部下の労苦と犠牲の上に
リーダーの栄光は輝いているという意味だ。


日露戦争の旅順陥落のために何万という兵が
命を落としたが、そのおかげで乃木将軍の功名は
大いに上がった史実などはその典型であろう。


 しかし、将たる器なくて、万骨がその命を
捨てるわけもない。


「あの人のためなら・・・・」と部下に思わせる
資質をリーダーの方が備えていなくてはならない。


その大きな要因が、自分が責任を負って部下を
助けるという「一将死して万骨生きる」の精神である。


 人の上に立つリーダーや経営者は必ず、
その地位にふさわしい責任がともなう。


リーダーはいつでも責任を取ることを念頭に
置いて事に臨まなくてはならない立場にある。


 リーダーの責任感こそが人の心を動かし、
組織をまとめる最大の要因となるのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)


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己を捨て部下を活かす責任感 

20170401川上光正先生ブログ


日本を、どこにも責任の所在がない、誰も責任を
取らなくていい「無責任体系」の国だといったのは
平成八年に逝去した政治哲学者の丸山真男氏である。


 たしかに、社会が複雑になり、高度に組織化されてくると、
幹部が取るべき責任が下へ押しつけられる、責任の横流し
やたらい回しが行われるなど、責任の所在は不明確になって
いく傾向が強い。


 動燃を引き合いに出すまでもないが、日本は
役人天国で、官僚の天下りがよく話題になる。


局長クラス以下の役人OBが特殊法人や民間企業に
天下っても、実際にはあまり役に立たないケースが多いという。


なぜなら、彼らは政策立案の能力には長けていても、
その政策の是非については責任を取らなくていい
システムの中で仕事をしてきた。

そのため、「責任を取る」能力、態度に欠けている。


しかし、実は民間企業の指揮官に最も要求される資質は、
その責任能力なのである。


 古くは、捕虜の刺殺を兵に命じておきながら、戦後、
その責を問われると、

 「いや、あれは部下が勝手にやったことだ」と
言い逃れする将校。

違法な株取引が発覚したとたん、
「あれは秘書がやったこと・・・」と、責任回避するリーダー。

いずれも人の上に立つ資格はない。


 一般の会社でも、何か問題が起きた場合、
「私はそんなこといった覚えはないぞ」
「どうするつもりだ。君が責任を取れよ」などと、
部下の失敗やミスを一方的に責めたり、
責任を押しつけたりする管理職がいるが、

これは言語道断。


責任転嫁された部下はまったく逃げ道がない。
部下をそういう立場に追い込んだというだけで

リーダー失格である。


 かりに、その問題が部下のミスや独断によるもので
あっても、管理職には少なくとも管理不十分、
監督不行き届きの責任は生じる。


人を束ね、組織の長たるリーダーは、他は無能であっても、
一点、「責任を取る」覚悟だけは常々しておかなくてはいけない。
(次回へつづく)

(拙著:『リーダーの精神哲学』 1997年発刊 より)

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