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余財は人の心と目をくもらせる 

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 一九八六年二月、当時のマルコス大統領が追放されたフィリピンの革命のときに、マラカニアン宮殿の内部がテレビカメラによって克明に映し出されたことがあった。
 イメルダ夫人の衣装や靴を保管する専用の部屋まであり、権力者の住居はそれは広大で豪華、贅を尽くしたものであった。もちろん、寝室も豪華で、ベッドは天蓋つき、ビロードのカーテンのようなものがめぐらしてあったと記憶する。
 だが、その状況を見ていて私は思った。どんなに栄耀栄華を誇る権力者といえど、ベッドの大きさはせいぜい畳二畳ほどにすぎない。位人臣をきわめた人間であっても、横になって寝るスペースは三十坪も五十坪も必要とするわけではない、たった畳一枚か二枚の空間があれば、それで事足りてしまうのである。財や贅も眠りの中までは持っていけないのである。
 また、世界の要人の葬儀の様子を見ても、その柩の大きさは一般の人の場合とあまり変わらない。偉人、要人といえど、その財や地位に見合う大きな棺桶を必要とするわけではない。これまた、死後の世界へ現世の財産を持っていけるわけではないのだ(心の財産は別である)。日本の俗言に「立って半畳、寝て一畳」というのがあるが、人間はしょせん我が身一つで生まれ、死んでいくものである。一日の終わり、あるいは一生の終わりに横たわる空間の広さは、誰しも等しく畳一畳、せいぜい二畳である。だとしたら、現世で手にした財にいったいどれほどの意味、価値があるか。
 そう悟ることは凡人にはなかなか難しいが、人の上に立つ者にとって、欲が少なく財に対して恬淡とした態度は身につけてしかるべき資質である。
「財集まらざるは恥なり、財集めてこれを己のものとするはまた恥なり」という言葉もある。
 財というものは、集めようとして集まるものではない。その人間に善の因果律と徳があれば自然に集まってくるものだ。財は末で、人間の徳性<業>こそが根本のものである。それなのに財を集めるのにあくせくして、自分の徳を汚してしまう人がなんと多いことか。
 古来、日本の葬儀では、棺桶に六文の銭を入れる習俗があった。これは三途の川の渡し賃が六文といわれたことに由来する。つまり、あの世へ持っていける財はたった六文にすぎない。そのために徳を汚してしまうことは、実に愚かなことである。
 日本の企業では、役員室や社長室はたいていビルの上階にある。ところが、これを二階の玄関上に移したある会社の社長がいる。
 上にいると、専用のエレベーターを使い、部下を自分の部屋へ呼びつけるようになる。営業部や総務部などへ下りていって、見回ることもめったになくなる。社員との接触がほとんどなくなり、人の上にいて、部下を見下ろすことに慣れ、彼らの心情や苦労がいつの間にかわからなくなってしまった。
 そこで、社長室を二階の玄関上に移した。窓からは社員の出入りが見え、彼らの騒めきも耳にできる。彼らの様子を垣間見、彼らの日頃の喜怒哀楽にふれることもできる。社員の心を掌握するには、彼らの心をまず理解できなくてはならない。階上におさまりかえっていたのでは、それはわからない――その社長はそう語っていた。
 地位は知らぬうちに人を傲慢にする。財もこれと同様。過剰な財は人の目と心をくもらせ、徳を汚し、真理から遠ざけるのである。

(拙著:『リーダーの精神哲学』1997年発刊より)

癒しの光っちゃん 川上光正 記


川上光正オフィシャルサイト
http://kawakami-yoga.com/


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